還暦過ぎても

還暦過ぎても、心は少年のまま…

日活・松竹・東宝による日劇争奪戦

ある経済ニュースを見ていたら、ある持株会社の社長に見覚えのある名前が…。まさかと思いましたが、学生時代の付き合いの深かったクラスメートで、今でも年賀状のやり取りを続けている男でした。まさかそうなっていたとは…という驚き(がほとんど)と祝福の気持ちでおります。

さて、まだ「社長たちの映画史」を読んでいますが、いま有楽町マリオンが建っているところにあった日本劇場(通称:日劇)について、Wikipediaにも載っていないことを書いてみたいと思います。

 

 

日本劇場(にほんげきじょう、1933年12月24日 - 1981年2月15日閉館)は、かつて東京都千代田区有楽町に存在した劇場。日劇(にちげき)の通称で親しまれた。(中略)

日劇は当初、「陸の龍宮」「シネマパレス」といった構想のもと、収容客数4000人の大劇場、ならびに日本初の高級映画劇場として計画された。屈曲した外壁、広大な舞台、アールデコ調の内装など、当時としては斬新かつ画期的な建築要素をふんだんに取り入れ、渡辺仁設計、大林組施工により、1933年に竣工、同年12月24日に開場披露式が盛大に挙行された。wikipediaより

 

 

昭和天皇のひと言で完成

1933年に竣工(工事の完成)とありますが、着工は1929年12月です。

製紙王 大川平三郎が主な出資者となって、同年2月に経営母体となる日本映画劇場株式会社が設立され着工されました。
が、当時は昭和恐慌の真っただ中(ウォール街大暴落が10月下旬)で、資金不足となり、長く鉄骨のまま放置されました。

そこへ通りかかった昭和天皇陛下が、鉄骨の残骸を見て「あれはなんだ?」と側近にお尋ねになりました。それを聞いた大川平三郎は、責任を感じて私財を投じて、着工から4年後にやっと完成させたものです。

 


日活・松竹・東宝による日劇争奪戦

当初は日本映画劇場株式会社が経営していたが、経営不振となり一旦閉館。次いで日活が賃借して映画館となるが、これも経営に失敗。次いで東宝が賃借して直営、さらに会社そのものを吸収合併した。

Wikiにはありますが、日劇争奪戦には松竹も大いに絡んでいます。

 

1933年12月に開業した日劇ですが、すぐに経営は行き詰まり、翌34年7月には日活が吸収合併することになります。この話をまとめたのが、後の大映社長で当時日活の部長だった永田雅一です。

松竹も日劇を狙っていましたが、剛腕永田にしたやられた格好です。
他にも俳優の引き抜きとか、永田に煮え湯を飲まされている松竹は、永田を日活から引き抜くことを考えます。

永田はこれに呼応して、松竹から資金援助を受けて、8月に日活を退社・独立します。が、表向きは社長の中谷からの酒のうえでのパワハラを受けて退社した格好になっています。

 

永田がいなくなった日活は、日劇を買収する資金を手当てできず、契約は破談になります。

松竹社長の大谷竹次郎は、日活と日劇の破談を知ると、大川平三郎を呼んで、半年の月賦で株譲渡の約束をします。

 

これで日劇は松竹のものになるはずだった。だが、大谷は甘かった。正式な契約書を作成せず、口約束だったのだ(86ページ)

 

東宝小林一三は、この情報を得ると、大川の息子と交渉して話をまとめ、東宝を増資して資金を作り一気に日劇を買収します。

この買収は12月に正式発表されますが、大谷はさぞ驚いたことでしょう。
以降、松竹は東宝を目の仇にするのですね。

このようにわずか1年の間に凄まじい争奪戦があったわけです。

 

昔ながらの現金払いの方法しか知らなかった松竹の大谷竹次郎三井銀行出身の小林一三の差が顕著に顕れた事例といえます。